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自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第14回 - GQ JAPAN

幻と終わったハルトゲ・スカイライン。ヨーロピアン・コレクションではハルトゲのロゴは消えてしまった。

クルマを良くしたい思いが裏目に

輸出用の3リッター直6エンジン(RB30)ブロックに2リッターRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮する直6を積んだ「ハルトゲ・スカイラインHS30」構想を提案し始めた頃から、富田らに対する日産社内の風当たりが強くなっていた。

ある時、担当者が重い口を開く。富田たちのプランを日産の社員たちは裏で『ウルトラCプロジェクト』などと呼んでいた。奇異の目で見られているというのだ。要するに富田たちは日産自動車の玄関を間違って入り、逆向きに突っ走っていてみんな迷惑に思っているのだ、と。富田としては右も左も分からず、ただクルマを良くしたい一念で走ってきただけだったが、それは組織のなかで必ずしも機能する方法ではなかった。

組織には理解者や協力者がひとりでも多くいた方が良い。そう気づかされた富田は翌日から仕事のやり方を180度変えた。通常の手順を踏んだ。役員から呼びかけてもらうのではなく、受付カウンターに寄って面会カードを書き担当者を呼んでもらうことから始めた。そして会ったひとりひとりにチューニングカービジネスについていろんな角度から丁寧に説明した。たとえ分かってもらえなくても相手と打ち解ける努力をしたのだった。

幻となったハルトゲ・スカイライン

地味な努力で富田たちの理解者が増え始めたというのに、肝心の“ハルトゲ・スカイライン”プロジェクトの雲行きはいっそう怪しくなっていく。実はプロジェクトに対する執拗な反対工作が裏で行なわれていたのだった。

原因はトミタ夢工場のレース活動にあった。長坂尚樹選手を擁する富田の会社は85年に始まった全日本ツーリングカー選手権(JTC)にハルトゲBMWで出場し、見事シリーズチャンピオンに輝いていた。これがある人物の逆鱗に触れたのだ。実はその年のJAF主催年間表彰式において富田はその人物から「絶対にハルトゲ・スカイラインなど認めない」と宣言されていた。

富田が日産と関わるきっかけとなった、R31型スカイラインの2ドアクーペ。4ドアモデルで芳しくなかった評判を取り戻すため、試作段階から富田が携わった。

その人物とは日産社内に幅広い人脈と影響力をもっていた難波靖治ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)初代社長である。

結局、富田の“ハルトゲ・スカイライン”構想が実を結ぶことはなかった。それでも地道に造り上げた富田の社内人脈が功を奏したのか、富田の企画はスカイライン「ヨーロピアン・コレクション」として、日産本体ではなくプリンス自販とのコラボレーションという形で実現する。もっとも「ヨーロピアン・コレクション」そのものはチューニングカーではなく、単なるドレスアップカーであったが……。

さらに87年には富田の企画によく似た“スカイラインGTSニスモバージョン”も登場しているから、一連の出来事はユーザーの存在を無視した、子会社社長のメンツをかけた日産社内の単なる抗争でしかなかったのだった。

のちのトミーカイラ・M30に採用されたと思われるエンジンの写真。実際に搭載されたものかは定かではないが、すでにM30のロゴが刻まれている。

櫻井眞一郎との出会い

“ハルトゲ・スカイライン”計画が暗礁に乗り上げそうになった頃、富田はミスタースカイラインこと櫻井眞一郎とも会っている。

それは当時の副社長がセッティングした食事会だった。突然自分の縄張りに殴り込んで来た若造に当然ながら櫻井はいい印象を持っていなかった。当時の櫻井は商品企画室において車両開発を統括する部長で、富田より20歳近くも年上だった。

会食は気まずい雰囲気で進んだ。ふたりの意見はことごとく真っ向から対立する。食事が終わると二人は互いを認め合うことなく早々に席を立とうとした。

こちらはスカイラインのインテリアカット。富田はブログ内で、すでにほぼ完成したスカイライン2ドアクーペに対し、メーターパネルやシートなど、内装などにもアイディアを提供したと綴っている。

富田が櫻井に別れの挨拶がてら病み上がりだった櫻井の体調を気遣ったときだった。櫻井がそのときの病で「三途の川」を渡りかけたという話を返すと、富田もまた過去に「三途の川」を見た話で応えた。生死をさまようという非常な経験がふたりを急速に近づける。会が終わっても二人は話し続けた。櫻井が富田をホテルまでクルマで送ったのだが、すっかり打ち解けた二人はなんと朝までそのクルマのなかで話し込んだのだった。

櫻井はプリンス出身で、日産生え抜きの難波とは同い年だった。「富田さん、難波さんは頑固一徹で軍人のような人だ。いちどボクが掛け合ってみよう」とまで言ってくれた。

結局、櫻井の助太刀も空しく難波は最後まで首を縦に振ることはなかった。富田のプロジェクトは闇に葬られてしまったが、人の縁というものの素晴らしさに感動した若い富田は決意を新たにする。

マイナスをプラスに変えろ!

やはり自前のブランドを育てるほかない。トミーカイラの認知を広め、自分の好きなようにチューニングカービジネスを展開していきたい。言ってみれば原点に立ち戻った富田は“ハルトゲ・スカイライン”企画をそのまま“トミーカイラ・スカイライン”計画へと変更した。88年に日本初の市販公認チューニングカーとして発表された「トミーカイラM30」である。

富田の動きは早かった。ハルトゲが不可能ならトミーカイラブランドで計画を引き継ぎたいと日産の上層部に申し出る。ベース車両はもちろん輸出用エンジンブロックなど純正パーツの供給などを要請すると、ハルトゲプロジェクトの負い目もあったのだろう、上層部は快く引き受けた。日産としてもモデル末期の迫る7代目スカイラインが話題になればという思いがあった(M30発表の1年後にR32スカイラインがデビューする)。マイナスをプラスに変える富田お得意の戦略が功を奏したのだった。

富田は“ハルトゲ・スカイライン”計画を上回る性能を狙うことに決めた。解良喜久雄をはじめとするトミタ夢工場の技術力を信じていたし、千載一遇のチャンスをブランド飛躍の好機と捉えていたからだ。けれどもそこには越えるべき巨大な壁がもうひとつあった。その壁を越えなければ、日産の協力はありえない。

その壁とは運輸省(当時)である。自動車の改造が御法度だった時代に、自動車メーカーが造ったクルマを改造して売ることを“お上”が認めるなど誰も想像できない時代でもあった。

(次回予告)
ハルトゲ・スカイライン計画が水の泡となったことで、富田は逆にまたとないチャンスを得た。日本初の市販公認チューニングカーを造るというチャンスだった。それはまたオリジナルブランドであるトミーカイラを確立できる機会でもあった。紆余曲折を経て発表にこぎつけた事実上ブランド初の市販公認チューニングカー“トミーカイラM30”とはいったいどんなクルマだったのだろうか。

文・西川 淳 写真・日産自動車 編集・iconic

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February 02, 2020 at 07:30PM
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