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カーフィルムから振り返る、自動車の平成史 導入編 - レスポンス

マフラーやエアロ、車高調、アルミホイールなどクルマ好きが車両購入後にカスタムするパーツは数あれど、平成の30年間を経てカーフィルムほど、製品・ユーザー・施工車両が移ろいだパーツも少ないかもしれない。

かつて目隠し代わりにヤンチャなドライバーから求められた黒いフィルムは、遮熱・UVカット機能を纏った透明な姿でファミリーや一般ドライバー層の元へ。施工される車両もカスタムされたセダンやチューニングカーから吊るしのミニバン・エコカーに主軸が移っていった。

今回は、そんなカーフィルムの魅力を、一代で築き上げた専門店「ビーパックス」(京都市右京区)を通じ、27年にもわたって発信してきた井上代表とともに、自動車文化やドライバーの世相をも映し出す日本のカーフィルムの歴史を連載で振り返る。

◆フィルム黎明期 クルマもユーザーも熱気帯びた昭和~平成初期

そもそも、日本で自動車ガラス用のフィルムが広まり始めたのはまだ昭和の1980年代。ビーパックス井上代表が多大な影響を受けたという、1979年創業のフィルムサプライヤー「美装」(長野県上田市)の三浦恵助代表によると、カスタム文化が先行するアメリカで広まった建築用フィルムのクルマへの転用がルーツ。「マディコフィルムを販売した三晶や、スリーエムの建物フィルムを流用してカーフィルム事業を始めた弊社が日本におけるカーフィルム創生期の役割を果たした。ただ、品質はハードコートがないために傷がつきやすく、国産製品もあったが、まだまだレベルの低いものだった」と当時を語る。

そしてこの日本への上陸以降、カーフィルムは平成初期に向けて爆発的に拡大していく。背景にあったのは、勢いづく国産車とそれに興じるユーザーのクルマへの確かな熱量だ。

このフィルムが隆盛を誇った80年代~90年代前半は、国産車自体が活気に満ちていた。バブル崩壊直前の89年には、日産『スカイラインGT-R』やユーノス『ロードスター』、トヨタ『セルシオ(レクサス・LS400)』と今も語り継がれる名車たちが登場。先行する欧米勢に追いつけ追い越せと、小型省燃費モデルで躍進した80年代日本の推進力を象徴するような存在で、スポーツカー、ライトウェイトスポーツ、高級車の各ジャンルで革新を巻き起こした。ちなみに井上代表が愛車としていた日産『180SX』が登場したのも同じく89年。前年に登場した『シルビア(S13)』の北米輸出仕様『240SX』をベースとしたモデルで、顔面スワップやドリフトなど、カーカルチャーに多大な影響を与えた一台だ。



スポーツカーや高級車を中心に国産車が活気を見せる中で、エンドユーザーが愛車をドレスアップする術としてフィルムに殺到。当時はオートバックスやイエローハットといった大手カー用品店でもエンドユーザー向けのフィルム販売が盛況で、三浦代表は、「10m以上もある店舗フロアの左右にびっしりと吊り下げられていた。手頃な価格で買える小巻を1人で4~5本買い、失敗したからとさらに購入するのを繰り返すエンドユーザーがあまりにも多かった」と振り返る。用品店では施工も好調で、ボディコーティングや車内クリーニングなど数あるメニューの中でフィルムをヒット商品とする店舗もあった。

◆ディーラーやカー用品店、エンドユーザーを支えたプロショップ

そして、そうしたエンドユーザーを支えると同時に、熱いニーズとともに盛り上がりを見せたのがフィルム施工を生業とするプロショップだ。

昭和から平成初期のフィルム市場について、98年4月発行の業界専門紙『カーディテイリングニュース10号』で美装・三浦代表は、「ほんの10年程前(1980年代後半頃)までカーフィルムは隙間の隙間仕事で、決して陽の目をみることのない裏路地でひっそり営むくらい仕事であった。しかしユーザーは、このような少し危うく不意を衝く商品に魅力があったらしく、裏街道のトレンドとして人気が上昇し、消化しきれないほどの予約を持つようになり、価格を毎年のように値上げした」と振り返っている。

井上氏がビーパックスを創業(法人登記前)したのは、そんなアウトローな雰囲気がまだ残る92年。愛車である180SXをチューニングする程のクルマ好きが高じ、脱サラして今でいうディテイリングの道に踏み出した。当時はコーティングを主としながらフィルムを施工していたが、「特にスバル『レガシィ』、トヨタ『カルディナ』、ホンダ『アコードワゴン』のフィルムの受注が多く、毎日この3車種のおかわりがいっぱいでした」と語る。


当時、一世を風靡したステーションワゴンブームはフィルム専門店の現場も席巻し、若年層を中心としたユーザーの熱量やアクティブなスタイルは、ミラー系やグレー系の着色フィルムへのニーズとして表出された。ショップ側にとっては順風満帆といえた国内カーフィルム市場。最盛期にはフィルムの普及率は30%程度、つまり約3台に1台がフィルムを施工していた程に広まっていたという。

◆フィルム市場減退への第一波

そんな国内フィルム市場に、最初に陰りが見え始めたのが1990年代半ば。メーカー純正のプライバシーガラスの登場だ。中でもシーンに大きな影響を与えたのが、94年9月に登場したホンダ・オデッセイ。それまで貨物ベースとしたワゴン車に対し、6~7人が乗れる広大なスペースと低重心による高い走行性能・快適性を両立し、大人数が快適に移動できる乗用車として今に続く「ミニバン」の先駆けとなった。

リアガラスとリアサイドに装着されたプライバシーガラスは、当初は上級グレードのみだったが、96年のマイナーチェンジで設定グレードを拡大。モデル自体の人気も相まって、「ファッション性やプライバシー保護を求める人が多かった当時のフィルム需要は明らかに目減りした」(井上代表)という。この当時、専門店のほか新車ディーラーもフィルム施工の大きな販売チャネルの1つで、『カーディテイリングニュース3号(97年2月発行)』では、ホンダノベル新東京の工場長が「中級の量販モデルを購入してフィルムを貼るパターンが多かった車種も、その後ほとんどのグレードでプライバシーガラスが選べるようになり、施工率が極端に下がった」と語っている。そしてこのプライバシーガラスは現在もなお引き継がれており、フィルム同様紫外線カットや遮熱など性能を上げ、今では高級車からコンパクトカー、軽自動車まで幅広く採用されている。

一方で、井上代表によると90年代は、すでに道路運送車両法でフロント3面の透過率は規定されていたものの、取締りのスキームが確約されておらず、有名無実と化していた。そのため、プライバシーガラス装着のオデッセイでも、運転席・助手席に追加でフィルム施工を求める声はあったそうだ。「当時はカスタム(愛車をイジる)への熱量も今より断然高く、免許を取得したばかりの若者がスモークフィルムの施工を求めてクルマをフィルム専門店に持っていっていたようです。オデッセイ登場は大きな衝撃でしたが、その後もフィルム施工で飯を食べる同業ショップはまだまだ残っていました」(井上代表)。

“人とは違った尖ったカッコよさを”。黎明期から90年代(平成初期)のフィルム市場は、そんな昭和らしいアウトローな熱量に底を支えられていた。だが、プライバシーガラスに続いて打撃を与えたのが、2003年(平成15年)の改正道路運送車両法だ。規定透過率以下の濃色フィルムを貼付した不正改造車を取締まる同法の登場により、フィルム市場は一気に冬の時代を迎えることとなる。(連載2「カーフィルム冬の時代編」に続く)

カーフィルムから振り返る日本の自動車平成史 ~導入編~

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May 14, 2020 at 08:00AM
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